【全文文字起こし】1976年ビクターDJ大会|久米宏さん 審査コメント完全版
1976年、高田馬場BIGBOXで開催された日本ビクター主催のDJ大会。
本記事では、その時の録音をもとに、審査員である久米宏 さんのコメントをほぼ全文文字起こしとして掲載します。
あわせて、当時のラジオ文化や音楽メディアの背景を補足しながら、
「なぜこの言葉が今も通用するのか」を読み解いていきます。
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【50年前の録音】1976年ビクターDJ大会で優勝|久米宏さんの総評と高田馬場BIGBOXの記憶 – 松藏七代 癒しの情報

審査コメント全文文字起こし
最後DJが終った後、録音より会場から審査員、久米宏さんの補足コメントを文字に起こしました。
詳細は下記を読んで頂き、当時の雰囲気が伝わればと思います。
DJ大会のアシスタント女性の声:それでは会場からの審査員の直美さんいかがでしたか
DJ大会の司会男性の声:そのままでいいんですよ
会場からの審査員 直美さんの声:専門的に言いませんですけどあの2回目だけあってすごく落ち着いていたと思います
音楽の方もとても良かったと思いますし、最後が2曲目ですけどね
それ私の高校3年の時のすごい思い出の曲なんです。とても良かったと思います
DJ大会の司会男性の声:はいありがとうございます。それではちょっとね
久米さんに補足していただきましょう、専門的な立場からね
久米宏さんの声:ちょっと彼女は英語を勉強してるんだそうですが
DJ大会の司会男性の声:そうですか
久米宏さんの声:僕はタイトルでふと思ったんですけどね
with a best soundですか? theならいいんです 僕はaに聞こえたんでね
ベストの前は定冠詞がつくんじゃないかと思ったんですが
放送を聞いている人あるいはディスクをジョッキー聞いている人というのは
不特定多数な人なんですよね原則として
だからということは相手はほとんど何も知らないということを前提としてしゃべらないと
その番組に一般性が出てこないわけで
そういうことはあなたはシャーリーバッシーの厚生年金ホールでの素晴らしさとか見ました?
DJの声:見てないです
久米宏さんの声:見てないと何を言っていいか分からないんですが見てなくてもテレビのショーは見ましたね
DJの声:ショー内容の話は何人からも聞いていました
久米宏さんの声:何人から聞いて、自分で見たような錯覚に陥っていればそれで十分なんですが
つまりラジオを聞いている人は、つまりこのライブレコードをかけてあげるということは
FM放送なんかで特にやる場合はそうなんですが
臨場感が一番大切なわけですね
つまり相手が現場で見ているような錯覚に陥らせるようにして聞かせなきゃいけない
手の動きが素晴らしいとかそういうこともいいんですが
もっと具体的な説明がないと、知らない人には伝わりにくいわけです。
シャーリー・バッシーが「ゴールドフィンガー」を歌うとき、
指の動きやマイクに向かうしぐさなど、実際のステージでの表現があります。
そうした動きや表現を具体的に伝えることで、
聞いている人により臨場感を持って届けることができると思います。
僕あの帝劇で見たんですけど本当に素晴らしい
Yesterday When I Was Youngを歌う時に
なんでこの歌が話題になったのか
それは彼女がその感情移入がものすごくて
つまりものすごい感情を込めて
最後になるともう涙をボロボロ流しながら歌った
それが素晴らしいんで話題になった
その辺の具体的説明がないと
あえて素晴らしい今DJだったんですけど
苦言を言えばね
その辺の具体的なことがあってこそ
聞いてる人は臨場感を持って
シャーリー・バッシーのライブを聞くことができる
その辺が一つ物足りなかったといえば物足りなかった
感じがします
DJ大会の司会男性の声:はいありがとうございます
そういうことですね、私なんかも自分で番組でね
ライブレコードをご紹介するときに
一番見てないアーティストのことが難しいんですが・・・
※一部表現は現代の読みやすさを考慮し編集しています
久米宏さんコメントの本質
「相手は何も知らない前提で話す」という意味
久米宏 さんのコメントの中で最も重要なのはこの部分です。
ラジオは不特定多数に向けたメディアであり、
聞き手は必ずしも前提知識を持っているとは限りません。
これは現代のブログやSNSにも共通し、
「読み手に委ねない説明」が求められるという本質を示しています。
「臨場感」をどう伝えるか
単に音楽を紹介するだけでなく、
- 手の動き
- 表情
- ステージの空気感
といった“見えない情報”を言葉で補うことが、
ラジオ表現の核心であると指摘されています。
1970年代の音楽とメディア環境
1970年代は、レコードを中心とした音楽文化が主流でした。
- シングル盤:400円〜600円
- LPレコード:1,500円〜2,500円
- カセットテープ:1,800円〜
現在と比べると、1枚の音楽の価値は非常に高く、
「選んで聴く」文化が強い時代でした。
また、FM放送を録音する「エアチェック文化」も広く浸透し、
個人が音楽を編集・再構成する行為そのものが楽しみの一つでした。
この録音は、私にとって音楽との原点ともいえる記録です。
時代は変わりましたが、
音楽を伝えたいという気持ちは今も変わりません。
50年前の記録として、ここに残しておきたいと思います。
大変遅くなりましたが、久米宏さん、2026年1月1日、81歳でご逝去されました。
謹んでお悔み申し上げます。
このテープのアップを機会に、多種のAiを使わせて頂き、当時の音楽メディアの状況、久米さんのご活躍暦を下記にご紹介させて頂きます。
1970年代から80年代にかけて、音楽を聴くためのメディアは大きな転換期を迎えました。当時の価格設定は、現在のデジタル配信やサブスクリプションに比べると、一枚の重みが全く異なるものでした。
当時の主なメディアの料金相場をまとめました。
1970年代:レコードの黄金時代
1970年代は、シングル盤(EP)とLPレコードが主流でした。
- シングル盤(EP): 400円〜600円
- 1970年初頭は400円でしたが、中盤には500円、後半には600円へと段階的に値上がりしました。
- LPレコード(アルバム): 1,500円〜2,500円
- 1970年頃は1,500円程度でしたが、オイルショックを経て1970年代後半には2,500円が標準的な価格になりました。
- カセットテープ(ミュージックテープ): 1,800円〜2,500円
- レコードと同じか、わずかに高い価格設定でした。カセットは「持ち運べる」という付加価値があったためです。
当時の物価感覚:
1970年代後半のLP1枚(2,500円)は、現在の感覚に換算すると約8,000円〜10,000円近いインパクトがありました。学生にとって、アルバムを1枚買うのは一世一代のイベントでした。
1980年代前半:デジタルへの移行(CDの登場)
1982年に世界初のCDが発売されましたが、当初は「超高級品」という扱いでした。
- CDアルバム(発売当初): 3,500円〜3,800円
- 当時のLPが2,800円程度だったため、CDは1,000円近く高い設定でした。
- 生カセットテープ(録音用):
1970年代〜80年代は「FM雑誌」を見ながらエアチェックをする文化が全盛で、生テープ(60分)は1本400円〜700円ほどでした。これをいかに安く買うかが当時の音楽好きの課題でした。
メディア別価格の変遷まとめ(目安)
| 年代 | シングル(EP) | アルバム(LP) | CDアルバム |
| 1970年 | 400円 | 1,500円 | – |
| 1975年 | 500円 | 2,200円 | – |
| 1980年 | 600円 | 2,500円 | – |
| 1982年 | 700円 | 2,800円 | 3,800円 |
1970年代といえば、ジャズや洋楽の輸入盤を求めてレコード店を巡るのも一つの楽しみでしたね。
久米宏さん 1970~のご活動暦
1970年代:ラジオの寵児からテレビの顔へ
1967年にTBSに入社した久米さんは、70年代に入るとその圧倒的なフリートーク力で頭角を現します。
- 『ぴったし カン・カン』(1975年〜):
司会者としてお茶の間の人気を不動のものにしました。コント55号の萩本欽一さんとの絶妙な掛け合いは、当時のバラエティの象徴でした。
- 『ザ・ベストテン』(1978年〜):
黒柳徹子さんとのコンビで伝説的な音楽番組をスタート。生放送ならではの緊張感と、久米さんのスピーディーで機知に富んだ司会ぶりは、当時の音楽メディアの勢いを象徴していました。
- ラジオ『土曜ワイドラジオTOKYO』(1970年〜1975年):
毒蝮三太夫さんらと共に、ラジオ黄金時代を築きました。
1979年:フリー転身の大きな賭け
1979年、久米さんは35歳でTBSを退社し、フリーアナウンサーとなります。当時は局アナがフリーになること自体が珍しく、非常に大きなニュースとなりました。
- オフィス・トゥー・ワンへの所属:
フリー転身後、さらに活動の幅を広げ、単なる「司会者」ではない「ジャーナリスティックな視点を持つキャスター」への土台を作った時期です。
久米宏さんの活動年表(1970年代〜)
| 年代 | 主な番組・出来事 |
| 1970年 | ラジオ『土曜ワイドラジオTOKYO』開始 |
| 1975年 | 『ぴったし カン・カン』司会就任 |
| 1978年 | 『ザ・ベストテン』放送開始 |
| 1979年 | TBSを退社、フリーアナウンサーに |
| 1985年 | 『ニュースステーション』放送開始 |
1970年代の音楽番組やバラエティで見せた軽快な語り口が、後の報道番組での「言葉の力」に繋がっていったのは非常に興味深い変遷ですね。
『ぴったし カン・カン』は、TBS系列で約11年にわたって放送された長寿クイズ番組でした。
放送期間
1975年(昭和50年)10月7日 ~ 1986年(昭和61年)3月25日
番組の主な変遷
この約11年間の放送の中で、司会者や番組のスタイルも少しずつ変化していきました。
- 久米宏さんの司会期(1975年〜1984年) 番組開始から約9年間、久米宏さんが司会を務めました。萩本欽一さん率いる「ぴったしチーム」と、坂上二郎さん(後に藤村俊二さん)率いる「カン・カンチーム」の対決を、久米さんのスピーディーで毒舌を交えた名調子が盛り上げました。
- 小島一慶さんの司会期(1984年〜1985年) 久米さんが『ニュースステーション』準備などのため降板した後、小島一慶さんが司会を引き継ぎました。
- 吉田シゲロウさんの司会期(1985年〜1986年) 番組末期の司会を務め、1986年3月に惜しまれつつ幕を閉じました。
エピソード
最高視聴率は37.6%(1980年)を記録するなど、まさに1970年代後半から80年代前半を代表するお化け番組でした。当時の火曜夜8時は、この番組を楽しみにされていた方も多かったのではないでしょうか。
その後、2003年からは安住紳一郎アナウンサーによる『ぴったし カン・カン』として復活し、こちらも長く愛されましたね。
当時の解答者(コント55号のお二人や藤村俊二さんなど)とのやり取りで、特に印象に残っているシーンなどはありますか?
『ザ・ベストテン』は、単なる音楽番組の枠を超えた「生放送の人間ドラマ」でした。久米宏さんと黒柳徹子さんのマシンガントーク、そして予測不能な中継など、今でも語り継がれるエピソードが満載です。
『ザ・ベストテン』伝説のエピソード
- 黒柳徹子さんとの「1秒」の掛け合い 番組の代名詞でもあったお二人のトーク。実は**「一切の打ち合わせなし」**のぶっつけ本番だったといいます。黒柳さんの止まらないお喋りを、久米さんが絶妙なタイミングで遮り、次へ進める。あのスピード感は、お互いの信頼関係があったからこそ成せる業でした。
- 「お越しいただけません」の誠実な謝罪 当時の音楽番組は、出演できない歌手がいると「代役」を立てるのが一般的でした。しかし、久米さんはあえてカメラに向かって**「〇〇さんはスケジュールの都合でお越しいただけません」**と正直に頭を下げました。この「嘘をつかない姿勢」が、ランキングの公平性を証明し、視聴者の信頼を勝ち取ったのです。
- 「追いかけます、どこまでも」驚愕の中継 新幹線のホームや空港のタラップなど、「今そこにいる歌手」を映し出す中継は番組の名物でした。
- 松田聖子さん: 羽田空港に到着したばかりの飛行機のタラップから降りてきたところで歌う。
- 寺尾聰さん: 伝説の「ルビーの指環」12週連続1位の際、あまりにスタジオに来るため、専用の赤い椅子(通称:ルビーの椅子)が用意されました。
TBS時代の「ぴったし」以外の名番組
『ぴったし カン・カン』以外にも、久米さんは多くの人気番組でその多才ぶりを発揮していました。
- 『料理天国』(1975年〜) 「西の『料理天国』、東の『ぴったし』」と言われるほど、当時のTBSの看板番組でした。久米さんはリポーターや進行役として出演し、高級料理を前にしても物怖じしない軽妙なコメントで人気を博しました。
- 『土曜ワイドラジオTOKYO』(1970年〜) 久米さんの原点とも言える伝説のラジオ番組です。「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」などの名物コーナーを抱え、外からの生中継やリスナーとのやり取りで、久米さんの「フリートークの基礎」が作られました。
- 『トップスターショー・歌ある限り』(1976年〜) 豪華な歌手を招いて歌とトークをじっくり聴かせる、大人のための音楽番組。ここでも久米さんの、相手の魅力を引き出す司会術が光っていました。
1970年代、久米さんがラジオからテレビへと駆け上がっていく様子は、まさに戦後の放送文化が成熟していく過程そのものでした。
ところで、久米さんは2026年1月に81歳でこの世を去られましたが、黒柳徹子さんは「本当の親友だった」と涙ながらに追悼のコメントを寄せられていました。
おしまいの余談
1974年にオープンした高田馬場のランドマーク「BIG BOX」は、当時の若者文化の発信地でした。特に9階の「ビクターミュージックプラザ」は、オーディオ機器のショールームやスタジオが並び、音楽好きにとっては聖地のような場所でしたね。
久米宏さんが審査員を務められたその大会について、ブログ公開に向けた背景やポイントを整理しました。
1976年当時の久米宏さんとイベントの背景
1976年といえば、久米さんが『ぴったし カン・カン』で全国的な人気を博し、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった頃です。
- ビクターとの繋がり: 当時、TBSの番組とビクターは関係が深く、久米さんもこうしたイベントのゲストや審査員としてよく招かれていました。
- アマチュアDJ文化: 当時は深夜放送ブームの真っ只中。誰もが「糸居五郎さん」や「久米宏さん」のような喋り手に憧れ、自分の声をカセットテープに録音して楽しんでいた時代でした。
1980年代:報道のあり方を変えた『ニュースステーション』
1985年、テレビ朝日で『ニュースステーション』がスタートします。これが久米さんのキャリアにおける最大の転換点となりました。
- 「中学生にもわかるニュース」:
それまでの堅苦しいニュース番組のイメージを覆し、ネクタイを外したラフなスタイルや、模型を使った解説、そして何より久米さんの「個人の意見」を隠さないスタイルが日本中に衝撃を与えました。
そして最後の最後に、下記の2026年1月13日に放送された報道ステーション追悼放送を見て頂ければ幸いです。
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